ご紹介: 生年月日: 1933年4月16日
出身地: 浜松市半田町
ご職業: 曹洞宗僧侶
井 上義衍老師より嗣法。今日に至るまで多くの後継者を育て、また出家得度者を導いてこられました。最近は招かれるままに、請われると法を説いていらっしゃい ます。『カフェ寺』もその一つで、何回かやっているうちにカタチになってまいりました。次回の会はどこにきけばわかるか?というご質問に答えるために、ま た新しい方も気軽にいらっしゃれるよう、このページを立ち上げています。(文責 砂子)
老師の紹介―井上哲玄老師
井上哲玄老師 近影 2013年
井上哲玄老師の庵
井上哲玄老師の庵
井上哲玄老師の庵
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井上哲玄老師
50歳、雨の音にて大悟
昭和8年遠州は浜松北部の山寺に生まれる
500年間出と言われる近代の高僧・古仏と尊敬される浜松の井上義衍(ぎえん)老師を師匠とする
貧しき山寺に育ち、また幼少時少年時は戦争前後のため、甘酸辛苦を嘗め、師匠より暖かくも厳しい教育を受ける
また、多感な少年期に最愛の母を失う
10代から10年以上に及ぶ専門道場の修行にあるも師の義衍老師の宗風を心より慕う
15歳から発心寺僧堂にて原田祖岳老師に参ず この時、師井上義衍老師の法を知らず 18歳の時、墓場にて夜坐をして徹宵・明け方に及ぶ
梵鐘を聞いて悟り、原田老師に見性を許されるも本人は肯わず
また自坊に帰省せる時は、玄魯義衍老師の摂化を助く
後、住職に就き、且つ、大本山の要職を兼務し、後進の指導および一般人の指導・助言にも携わる
斯くの如くなりと雖も、心事未了なることを密かに憂う
愈々工夫に精彩を著く
50歳を目前にする年の臘月晦日、寺院境内の掃除を終えて、疲労してしばし居間にて休息中、計らずして自己を忘ず 雨の音に豁然大悟(かつねんたいご)
釈尊と同一眼に見、祖師方と同一耳に聴くことを得たり
長年の修行の困苦が実を結び、父母未生以前の本来の面目に撞着し、真に師父の恩・母の恩に報いることを得たり
茲に於いて仏法参学の大事を了畢せり
後、或る人の言葉にて、鑑覚の病に関する疑義が晴れ、真の自在の境涯を得る
爾後、師の成し得なかった堂宇を修復し、また禅堂など諸堂を建立して伽藍を整え、また僧俗の修行者を接化すること愈々盛んなり
元来専門の修行僧の教育に長年携わり、自他ともに対して厳しき人なるも、自身の修行に長年を要したこともあり※、棒喝が飛ぶことはない
修行者の問題点を見通す力に秀で、またその緻密な説得力は定評があり、法のためには時間を惜しまぬ親切なる語り口は師・井上義衍老古仏を髣髴とさせる
玄魯義衍老師が尊敬してやまなかった趙州和尚*の口唇皮禅は、義衍老師によって現代に大輪の華を開いたが、仏教語・禅語・漢語を排した井上哲玄老師に至って口唇皮禅極まれりの感がある
師・井上義衍老師の残せるテープ200巻余りをこつこつと文字起こしし、10数冊に及ぶ著作物として刊行せるはひとえにこの井上哲玄老師による※※
多くの出家(僧侶)・在家(一般人)の弟子を育て、傘下の修行者を導き、僧俗共に省(気づき)あるもの多く、又見性を得るものも少なからず※※※
住持職を退き傘寿を過ぎたる今は大衆の摂化のみをこととされている
近年益々円熟せる境地で接し、女性にも若い一般人修行者にも頗る人気が高い曹洞宗の真の高僧、道号は暁山、諱は哲玄、暁山哲玄大和尚(1933-)、井上義衍老師(1894-1981)の嗣法者
井上貫道老師(静岡掛川・少林寺参禅道場師家)、井上義寛老師(遷化せんげ)は実弟になる
※ 老師自身は長年の修行、いわゆる厳しい修行は不要だと言われている
「訓練してそうなるのではない」と常々説かれる
※※ 禅僧の死後数十年経過してもその著作が刊行されることは、業界でも例を見ないことと言われている
※※※
「悟り、見性には段階はない もし何回もあったらならば最後のが本物で、それまでのはそうでなかった」
「見性をして、その時はハッキリとしていたけれど、あとになるとハッキリしなくなったのは、それは見性ではない」
「本当に見性すれば、以後決して迷いにもどることはない(2014年1月27日のカフェ寺でもその話あり)」
と哲玄老師は常々言われている
哲玄老師は、通常「気づき」を見性の意味で使われるので注意
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* 趙州和尚とは、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778年-897年)は、中国唐末の禅僧。南泉普願和尚に師事して18歳にて大悟、破家散宅。60歳から行脚をして80歳にて趙州という地の観音院に住職して40年、120歳まで法を説いた。南泉和尚の法嗣。
近代の巨匠・飯田欓隠老師(大阪高槻少林窟道場開山)、古仏井上義衍老師(浜松龍泉寺中興開山)などが尊敬してやまない禅匠中の禅匠、歴代の祖師の中でも越格中の越格(おっかく) 棒や喝ではなくて口にて諄々と説いたためその家風は口唇皮禅(くしんぴぜん)と呼ばれる
趙州和尚因僧問狗子還有佛性也無 趙州和尚因みに僧問う 狗子に還って佛性有り也無しや
州云無 州云わく無
で知られている
釈尊→・・・→中国初祖・菩提達磨(釈尊から28代)→・・・→六祖・大鑑慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→南泉普願→趙州従諗(37代)
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井上哲玄老師の人となり
生真面目で堅物(周囲が異口同音に言うらしい)
昔は短気だったとのことであるが、今は柔らかさがにじみ出るあたたかい雰囲気の持ち主
骨太で筋肉質で恰幅の良い体格 意外に小食 余程栄養の吸収効率が良いみたい
長い間禅宗の厳しい修行をされたが、とても働き者で、かつて弟子がお寺にいた頃には、たとえば老師が境内を舐めるように掃除をするので、弟子たちに嫌がられ、「老師は掃除されなくていいです」と言われてしまったこともあるらしい。
骨を惜しまず働く人、すぐに身体が動く人、仕事人間で、実際仕事も仕上げまでが速い
社会的経験豊富な人からは、優れた経営者のようだ、社会に出たら成功したであろうと評されている
お酒はお付き合い程度で晩酌されることもないらしい
偏った癖や嗜好もなくバランスのとれた人格の持ち主
運転免許を和尚仲間でも一番最初に取得し、驚かれたそうである
住職(お寺の最高責任者・経営者、宗教法人の代表役員のこと。住職は和尚とは意味が違う)を退き、傘寿を過ぎた今では後進の指導のみが楽しみであるようだが、ある人が、今はいなくなった「若い人に色々智恵を授けてくれる親切なおじいさん」と言った
自分もこんな風になりたいなと思える人物
哲玄老師が、ニコリとされると男性も女性も癒やされてしまう
仏道や修行や坐禅について質問すると、とても親切かつ明快な言葉がその口から出て来る
質問に対しては、まわりくどい話をせずに、まず結論が出てくる
答えには不明瞭曖昧な点や一切ごまかしがない
抽象的な言葉でお茶を濁すとか、難しい禅語を引用してわかった気にさせることもない
また昔の苦労話や世間的道徳話をして、質問者の時間を奪うこともない最も大切なことを諄々と説かれるだけである
義衍老師の晩年に参禅し、老師遷化の後、しばらく自分一人で修行を続け、後年たまたま井上哲玄老師に出会ったことがきっかけで開悟したある一般の方が、こう言われていた「哲玄老師の話を聴くことは、義衍老師の話を聴くことと同じですよ」
禅の老師というと近づきがたいのが一般の印象であるが、哲玄老師は、威厳こそあるが威圧感はない
また親しく接するととても謙虚な人柄であることがわかる
悟りの悟り臭さが抜けた人物とはこういう人なのかと感じられる
周りの人間が唯一心配になるのが、時々体調が悪くなるということ
カフェ寺で話していると身体の不調は忘れているとのことだが、そのうち会おうと思っていると会えないかもしれない※
【好 物】 さつまいも・かぼちゃ(戦後これで育ったからとのこと) [ これを読んで さつまいもばかりあげないで下さいませ 本人曰く、「構わないですよ」]
【あまり好きでないもの】 麺類
戦前戦中戦後に成長期を過ごし、道場に行ってもだしがなく塩汁だったため、そうめんやうどんがまずくそれでうどん等が好きではなくなったらしい
※
「そのうち会おうと思っている人で会いに来た人はいない」とある時言われたことがある
文責 DK