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ブログ 井上哲玄老師は語る

井上哲玄老師語録

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「井上哲玄老師の話を聴くことは、(500年間出と尊敬される)井上義衍老師の話を聴くことと全く同じことです」― M居士(晩年の義衍老師に師事して修行、老師遷化後禅修行を離れるが、後に哲玄老師に会ったことがきっかけで開悟)

 

 

 

悟りと決着ー井上老師は語る

本当の見性をすれば二度と元に戻らない―決着をする決着―本当に即抜け悟ると、もう決して迷わない

 

井上哲玄老師と、ある参禅者の質疑応答です。この参禅者は博士号を取得している若者で、はじめて井上哲玄老師のところにやってきたばかりで、どんどんと鋭い質問で突っ込んで行きます

 

Q.納得できる時期がいつか来るとおっしゃいましたが、納得した後に、また「満足しないもの」が出てこないと言い切れるんですか?

 

A.そりゃ、もう、決着したらね。

 

Q.なぜそういうふうに言い切れるんですか?

私たちが生まれてきた時、物心つく前っていうのは、そういうことを知らなかったと思うんですが、自然にそういう迷いが知らないうちに出て来たわけですよね。

ということは、決着が付いてそういう状態に戻っても、また知らないうちに湧いてしまうという事はないんですか?

 

 

A.それはあり得ない。

 

 

Q.なぜ、あり得ないんですか?

 

A.物心つくっていう前の自分のありようっていうものが明確になるからです。

何にも知らなかった世界にきちっと安住できたら、そっからは、迷うとか、そういうようなことが、出て来ない。

 

それはね、人の一念心ていう思いがチラッと動いた時に、そっからいろんなことがこう発生していくっていう、根源がはっきりするからじゃないですか。

 

もちろん、コトとしてはいろんなコトが全部起きてきますよ、同じように。

 

 

Q.じゃあ、生まれる前の全く知らなかった状態とは違う、明確に知った状態になるっていうことですか?

 

A.そりゃもちろん、そういうことを知るっていうことは、人の認識が生じて初めて、「知る」ということがそこに行われる、出て来るんだから。

知ったことのほうに用があるんじゃないんですよ。

知る前の人の様子というところに落ち着くっていうことです。

 

だから一度、自分の存在も、ものの存在も、全くないところまで落ち切ってしまわないと、そこのところが明確にならないということだけです。

 

 

Q.元々落ち切ってたわけですよね、生まれる前は?

 

A.だから、元々落ち切ってたとこで生活してるんだけど、それも知らなかったの。そんなことも知らない。知らなきゃ役に立たんでしょ。

 

 

Q.じゃ、次は、知ったまま落ちていくっていうことですか?

 

A.知って初めて、そこが明確になるから。でも、「知った」ということに用があるわけじゃないですよ。

 

知る前の、そこに、「私」らしい、いわゆる「自我観」を持った「人」らしいような存在が全くない世界を、きちっと把握するっていうことだから。

 

それは、今だってみんなそうやって生きているんですよ。

 

ただ残念ながら、チラッと、考え方というもの、認識作用が生まれて、いわゆる「自我観」が生まれて物心つくということ、それを土台にして生きてるから。

 

そっから、そっからだけの話だよね、皆ね。

 

そこのところが本当に明確になったかたは、お釈迦さまが、今のところ、歴史上で私たちが知り得る範囲の中では一番最初のかたですよね。

 

お釈迦さまの体験されたものが、一番優れている。

他は全部考え方の世界で作ったものです、ことごとく。

 

お釈迦さまの教えは、決定的に違うものです。

 

 

Q.ということは、坐禅をするにつれて、そういうものが落ちていく?

 

A.落ちていくね。

 

 

Q.落ち切った時には「知るもの」もないという?

 

A.そうです。

 

 

Q.ていうことは、落ち切った状態の後に、「知るもの」が出て来た時に分かるということですか?

 

A.そうそう。

それが、何の縁でそういうふうに「知る」という認識がそこで動くかといえば、お釈迦さまで言えば、明けの明星の光が目に入った時に、初めて、そこで、認識がまた動いたっていうこと。

 

認識が死に切っていた世界では自覚することは不可能です。

 

認識が動いて自覚するんだから。

 

でも自覚する前の状況がそこで明確になるということです。

 

自覚ということがあって初めて明確になる。

 

でも、そこで「知ったこと」のほうを大事にしようとすると、それはもう概念化されたものなんです、そっから先は。

 

で、概念化されたものを持って生活しようとすると、どうしてもフィルターを通すの。

 

概念ていうフィルターを通してものを見るようなことが起きてくる。

 

そのためにまた、なんとなくしっくりしないってことが起きるっていうこと。

だから、「知ったもの」に用があるわけじゃない。

 

知ったらそれで終わりなんです。

だけど、多くは、知ると、「知ったもの」を大事にするから。

「知った人」がそこに、いつまでも存在をする…残るっていう表現でいいのかね。

 

その「知った人」まで、もう一度。一番最初から「知った人」なんて残ってなんかいなかったんですよ。

 

そんないい加減な気付きかたじゃないですよ。元のところを振り返ってみたら何にもなかったはずなんだけど、そこに「知った自分」があるために、どうしても、チラチラとそういうものが動くということはあるということです。

 

 

Q.その落ち切ってしまった状態というのは、普段生活している中で自然に起こっているということはないですか?

 

A.うん。ほとんど、知らんで生きているでしょう。

 

 

Q.では、なぜ気付かないんでしょうか? 普段忘れていて気付いていない時も一杯ありますよね。それも落ち切っている状態だと思うんですが、その瞬間瞬間に「知っているもの」が起こってきますよね。その時になんで気付かないんですかね?

 

A.そりゃ、底抜け、底抜け、落ち切っていないということがある。普通に落ちてるって、人が「落ち切った」っていうような見方をしているような落ち方では駄目だっていうことです。

見性をする,自性を見る,事実を悟るとは

遠方から来られた初参禅のかたが、哲玄老師と一対一で質疑応答をされました。

2時間あまりの対話でしたが、掲載の許可をいただきましたので、その一部をここに公開します。

 

(冒頭部分、録音なしのため略)

Q. それが「自性を見る」っていうことなんですか?

 

A. そうそう。自性を見るっていうことはそういうことですよ。

 

 

Q. 今の、この見えることとか、聞いてる、これだけですか。

 

A. それだけ。 今あることだけっていっても、「今あることだけだ」っていう「捉え方」なんですよね、ほとんど。

 

 

Q. はい。

 

A. だからズレがあるんですよ。

要するに、認識の上に乗っかってきているものを事実だと私たちは思ってるんですよ。

 

それはもう過ぎ去ったことなんです、みな。

 

人が捉える前の状況に用があるんでね。

 

 

Q. (机を指して)これを机と思う前に?

 

A. 机と思おうがなんと思おうが、こうやって目の前に出てきたら、このとおりのことがはっきりしてるでしょ。

 

 

Q. はい。

 

A. はっきりしているって言われると、「はっきりしている」という認識を通してね、いろいろ思うんじゃないですか。

 

「じゃあ見えていることが事実なのか」とかね。いろんなことを思わないですか?

 

 

Q. 思います。認識を、あくまで自分の感覚を通してる認識だから、「科学的に見たら」って考えてしまいます。

 

 

A. そうそう。

 

 

Q. そう思う前の、この触れた感じですか。

 

A. そうそう。 だけど間違いなく、その、人の認識する前のところで人は生涯生きてるんですよ。 生涯、いつも、そこから離れては生きていないんですよ。

 

ところが残念ながら、間髪を入れず、人の認識が動くもんだから。で、認識で捉えたもののほうを大事にしてるんですよ。

 

「事実」って言われても、認識で捉えた事実なんですよ。

 

それだけズレがある。 そこだけが、実証していく上での一番ポイントになるところなんですね。

 

だから、一度、人間を放棄して来なきゃだめだとかっていうようなことが言われてるでしょ、古人なんかでも、ねえ。

 

 

Q. 人間的な見方していったら…。

 

A. そうそう、人間的な見方。

 

今、学ぼうとしていることは、人間が人間社会の中に出てきて、そして人間的な生活をした中から、いろいろ問題点が出てきているわけでしょ。

 

「どれが本当だ」とか「真実は何か」とかって、いろんなことを思えているわけじゃないですか。

そういうものの中から、そういう欲求でもって、ものをこう追求してきてるわけじゃないですか。 初めからズレてるってこと。

 

 

Q. 最初からズレてるんですか。

 

A. 最初からズレてるんです。

 

 

Q. 分かります。分かりますっていうと変ですけど。

 

A. だから、こうやって、「コン」、音がしてもね、もう、認識する時には無いでしょうが。

聞こえた音は。

 

こんなこと言ったらじゃあどうするって言ったら、する時にどこでするのかってことが出てくるじゃないですか。

 

無いものを相手にはできないはずでしょ。

有るもの、「コン」、でしょ。

 

今、触れて、今、有るところでの話ですよ、全部。

 

だから人間の考え方なんか到底及ばない世界の話ですよ。

もっと言えば、人間のそういう考え方が一切関係ないっていうことで生きてきたっていうこと。

 

自分に用があろうがなかろうが、気に入ろうが入るまいが、そんなことは人間が考えた世界の話でしょ。

 

そういうことに関係なく、音がすりゃ聞こえるようになってるし、しゃべってればしゃべったとおりの言葉に聞こえるようになってるし。

疑う余地がないでしょ。

 

 

Q. 疑う余地がないですね。

 

 

A. だから、そんなにはっきりしてるでしょ、っていうことを言ってきたんじゃないですか。

 

 

Q. それが、答えなんですか、すべての見性の?

 

A. 見性というよりも、見性っていうのはその核心に触れるってことですけども、生きてるってのは、見性するとかせんとかに関係なく、いつでもそこで生きてるんですよ。

 

見性したとか、例えば、大悟したとかっていうことがありますけどもね、 全く、見性した人も、大悟した人も、しない人も、同じところで生きてるんですよ。

 

 

 

Q. 今、この現実…。

 

 

A. (うなずいて)現実は。

確証が得られてるか得られてないかっていうことは、いまいうことで問われますけどね。 

見性してるか、ないしは大悟してるかっていうことは。

 

そういう体験すらもきれいに忘れ去られるほど、跡形のない人になってるっていうことと。 

そういう違いはあるけれども。

 

じゃあそうなるのにはどうしたらっていうことが出てくるでしょ。

そういうような状況になるのには。

 

「なるようにはどうしたらいいか?」ということが、初めっからもう間違いなんでね。

 

 

 

Q. なってるからですか。

 

 

A. そうそう。 すでに誰もなれてるものに対して、「どうしたらそうなれるのか」っていう追求の仕方をする。

 

だから、要は、触れてるとこ、「コン」、はもう抜きなんです、そのことは。

 

もっと言えば、無視されるっていうのか、大事にされてない、そこのとこは。

 

もう全く大事にされないで、認識で捉えた事実を大事にしてものを追求してくるでしょう。

 

そのために、やってもやっても、この距離はもう縮まらないね。

下手すると縮まるどころか、どんどん距離ができてくる。

 

ほとんどそういう修行の仕方をしてるんですよ、みなさんは。

 

 

 

Q. ありがとうございます。

 

A. 大して難しいことじゃないですよね。

 

毎日朝から出来てる様子なんだから。

 

どうしても人間的な思考でもって取り扱うっていうことだけが全部邪魔してるだけなんで。

 

 

Q. 修行するのは、そういう、間違った方向をつかまないために、完全になくすために…。

 

A. 修行するっていうことは、だから、どこまでいってもね、また「なくす」方向に行くでしょ。

 

そうじゃなくて。

 

言葉として「なくならなきゃいけない」とかっていう表現があるとしますよね、まあたくさん使われてるから、あるんですよね。

 

「なくさなきゃいけない」ってことは、今あるからなくさなきゃいけないんだと思ってみんなやり始めるわけですよ。

 

邪魔してるものがあると思って。

 

「そういうものを取り除かなきゃならん」っていう方向に行くんですよ。

そうじゃなくて。

 

 

 

Q. 初めから無いから、と。

 

A. 初めから無いところに目を着けないと、今言うように、「なくす」方向にまた行くんですよ。

 

 

Q. 間違いやすいんですね。

 

A. 間違いやすい。

 

 

Q. 「全ては初めから一如で、もともと何も問題ない。

 

そのまま手を付けなければこのままでいいじゃないか」ということも、 そういう認識になってしまっているということですか?

 

そういった認識そのものが要らないってことでしょうか?

 

 

A. そうそう。 それは少なからず、いろいろ見たり聞いたり、今まで自分のやってきた中で培われたものでしょ。

 

やっぱり、あなたの中で作られたものです。

 

 

Q. 頭の中で?

 

A. 頭の中で作られたもので、一応結論として得てるんですよね。

 

だけどそれは、結論として得てる内容は間違いないですよ。

 

あなたの中で得てる結論は、全て、もうどうせんでもいいようになってる。

 

だから、どうせんでもいいようになってるんだから。

 

修行っていうものは「なにかする」ことだと思ってますよ、みな。

 

修行ってのは。修行ってのは、なにもしないことなんですよね。

 

なにかやろうってことは、必ず、全部作り事。

 

 

 

Q.手を付けないってことですよね。

 

A.手の付けようがないってことは、「コン」、触れたことに対してね、なにか手を付けてね、もうひとつの聞き方があったり、もう少し言えば、真実とはっていう時に、今触れてることが真実でないと思えることがあった時にはですね、もうひとつ真実を探すじゃないですか。

 

 

Q.他の?

 

A.他のことを探ろうとするじゃないですか。

 

だけど、探ることも出来なければ、やり直すことも出来ないし、手の付けようがないようになってんです、今触れたことは。

 

今でしかないんだから。

 

 

Q.人間の力じゃどうしようもない。

 

A.そうそう、人間の力ではどうしようもない。

 

だから人間の力を費やさないことが必要になってくるんですよ。

だから、何もしないっていうか、手を付けないってことは何もしないってことです。

 

そういうのは、道元禅師のお示しなんか見ても「自己を運んでものを証する、これを迷いと言う」と示されてるでしょ。

 

で、「もの来たって自己を証する、これを悟りと言う」と示されてるでしょ。

 

 

だから、

 

「コン」、

 

この音に触れて、「人」と言われるものの、このものの真相が明確になるということは、

 

「コン」

 

もののほうからの話です。

 

 

 

Q.音が証明する。

 

A.音が証明する。

 

音が証明するっていうことは、このとおりになってるっていうことでしょ。

 

だけど、言葉だからね。

 

 

 

Q.そのとおりしかない。

 

A.そのとおりしかないっていう。そのぐらい、ものによって証明されている。

 

だけど、

 

「コン」

 

これに触れた時にね、考え方を使って、どうあるのかって結論を出したとしても、それは自分の中で出した結論の話であって、そういう、ものの扱い方っていうのか、修行の向きとしてね、そういう方向に行くことは、それは迷いの、もう、根源なんですよ。

 

 

それは。

 

「コン」

 

この音、迷われないでしょ。

 

 

 

Q.はい。聞こえます。

 

A.そのとおりで。

で、聞こえたって言うけど、どこにあったのって言ったら、もう跡形無いじゃないですか。

 

跡形が無いようになってるからこそ、次の音も、それをちゃんと、そのとおりに活動するようになってんじゃないですか。

 

だからこれ(自身を指して)、活動体ですよ。

 

ものに触れては活動している。

 

 

以上

 

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